2017年3月10日金曜日

山名赤松合戦異聞


赤松政則は嘉吉に失われた領国を回復した赤松中興の祖である。
応仁・文明の乱をはじめ、多くの戦を経験した武人である一方、猿楽、和歌、蹴鞠、絵画などの諸芸にも通じた文化人でもあり、特に刀剣には強い興味を示し、自ら刀匠として作刀しているほどである。しかし政則を語るにはさらにもう一つ言葉が必要になってくる。
彼は美形であったのだ。
「赤松次郎法師、幼少より其心勇敢にして、其気大胆なり。剰へ器量礼容世人にすぐれ、寛正、文正の比、世に隠れなき美少年なり…」(『赤松盛衰記』)
この次郎法師とは政則のこと。六道珍皇寺にある政則の肖像画を見ると、デフォルメされた部分はあるが細面に切れ長の目、二重、筋の通った鼻と美形であったという政則を想像させる片鱗がある。
寛正六年十二月二十六日(1465)十歳の次郎法師が元服し義政から偏諱を与えられて政則と称するようになった時の様子が当時の日記に記録されている。

「赤松次郎元服出仕献御太刀御馬三十足。賜名乗仍又献太刀也。雖云少年、其威儀粛然、其起居進退可観。仍殿中人皆互相慶賀、愚又似有寵光也」 (『蔭凉軒日録』寛正六年十二月二十六日条)
まだ幼い政則は居並ぶ歴々の前でも動じることも無く、堂々とした立ち振る舞いであったと季瓊真蘂は記している。
今回の話はその多くを『蔭凉軒日録』に頼っており、特に断りの無い限り史料の出典は『蔭凉軒日録』とする。関係している記事は季瓊真蘂と亀泉集証が担当しているが、両者とも赤松氏に縁を持つ出自であることから、赤松氏に対しては特に好意的である点にも注意しなければならない。対して山名氏にはいささか冷淡な記述が目立つ。
政則は山名氏を宿敵として山名宗全、政豊等と激しい戦いを繰り広げている。今回はそんな政則と山名氏との違う形での戦いを取り上げてみたい。
宗全の跡を継いだ山名政豊。京都での戦いが終結し、領国但馬に戻った政豊はその後も播磨に攻め込むなど政則との戦いを続けている。しかし政豊の播磨攻めは政則に敗れて失敗に終わる。但馬に戻った政豊の求心力は低下し、家臣等は政豊に代わってその息俊豊を擁立しようとして、父子の泥沼の戦いが繰り広げられていく。
政豊には四男二女の子女がいた。長男の常豊は幼くして義尚に対面するなど後継を期待されていたが二十歳で早世している。俊豊は政豊との確執により山名惣領家を継ぐことは無かった。三男の致豊が政豊の跡を継いだが、家臣を抑えることが出来ずに若くして弟の誠豊に当主の座を譲り隠居することになる。『村岡山名家譜』によると女子の一人は一色上野介義嗣の室となったという。
政豊以降の山名の歴史を簡単に説明したが、話は少し遡り延徳三年(1491)将軍足利義材が近江の六角高頼征伐の軍を起こした頃に戻る。
義材の六角征伐の呼びかけにより諸大名らが次々と上洛していく中、山名政豊はその息、俊豊を名代として出陣させている。播磨での大敗の傷が癒えたかどうかといった時分である。政豊は先の義尚の近江出陣にも俊豊を名代として派遣している。八月十八日に上洛した俊豊は梅津長福寺に着いた。その兵は二千人、騎馬六十人であった。二十三日に出仕した俊豊。
「山名又次郎殿出仕、伴衆垣屋新五郎、太田垣、八木、田結庄、垣屋駿河守、村上。六騎、徒衆七十人許、或云百人許、因幡守護親子同参」 (二十三日条)
俊豊には垣屋両家、太田垣、八木、田結庄といわゆる山名四天王と呼ばれた家臣等と因幡守護山名豊時、豊重等が付き添っていた他ことが判る。
ここで亀泉集証のケチが入る。
「今日亦武衛御出仕。伴織田五郎、島田、飯尾、山下、織田與十郎、五騎有之、武衛衆壮麗勝於山名衆」 (二十三日条)
武衛とは斯波義寛のこと。同日出仕した斯波一行を見た亀泉集証は、先に見た俊豊達と比べて壮麗さで勝っていたとの評。厳しい。しかし辛口評価は更に続く。
義材の出陣に加わった諸大名には当然、赤松政則もいる。政則の軍は八月二十七日の義材の京都出立の時に、まだ山崎にあり遅れていた。翌二十八日になって政則軍は上洛した。
「赤松公入洛洛人挙群見之」 (二十八日条)
政則の上洛に際し都の人々がこぞってその行列を見物に出たのだという。都の人々は前日の将軍一行も見物しているが、京都を灰燼に帰した先の大乱から然程年も立たぬ内にもう軍勢を見て楽しむまでになっている。本当に逞しい。都に入った政則は亀泉集証と面会している。
「諸家兵優劣評之」 (二十八日条)
亀泉集証は都を出立する諸大名等の行列を見てその優劣の評価をしており、山名俊豊の軍勢をみた感想でこう記している。
「山名又次郎公諸兵皆不壮麗騎従之衆悉少弱者也、鹽冶周防守一人老兵也」(二十八日条)
俊豊の兵はみすぼらしく、騎上の武者も塩谷周防以外は若輩者ばかりであったというのだ。
この件については山名宗全与党であった六角高頼征伐に乗り気でない山名氏が形だけ合わせるために名代として若者ばかりを送り込んだという説もある。
先の播磨攻めの失敗で、政豊に従った国人達の受けた損害は大きく、特に垣屋氏は主だった一族を失っており、政豊自身も更迭問題があったばかりと、国内から目が離せなかったこともその要因にあると思われる。

「同族伯州太守六郎公、騎兵者十三員、標牌五百員、大壮麗也云々」 (二十八日条)
山名一族である伯耆守護山名尚之の軍勢は大変壮麗であったと評価されている。どうやら亀泉集証等は軍勢を実力や武装ではなく、その衣装、飾り具合など見た目の華やかさなどにより評価をしていたようだ。
都の人々も寺衆等も義材の出陣にパレードを見るようにお祭りとして楽しんでいたのだ。
いよいよ赤松政則の行である。
「凡一千二百四十五荷、此内馬駄多々有之、赤松公来、識與不識皆視其面骨、其服威雄、従後者騎兵五十五員。歩卒二千人許乎。馬上者皆不持弓矢、不被甲冑、只帯大刀耳。不亦一快乎」(二十八日条)
赤松は約三千人の兵による行列であった、政則はその行列の中ほどに居たことになる。注目を集めた政則の姿は、威風堂々たるものであった。赤松の騎乗の者達は皆武装をしていなかったという。

諸将の近江在陣も二ヵ月も経ったある日、亀泉集証は初めて山名俊豊を目にすることとなった。これまでは遠目に見るだけでその容貌などは判らないままであったのだ。

俊豊を見た感想は如何に。





「於湖濱山名又次郎殿出仕見之予始其面太醜面也…」 (十一月二十四日条)
この頃の俊豊は二十歳そこそこの年齢であったと思われるが、いくら赤松贔屓、山名に冷淡な見方とはいえ、これは余りな言いよう。酷い…
思えば宗全も赤ら顔の入道と呼ばれている。美醜では赤松氏に分があるのか。
赤松家にもその容貌を鬼瓦と評された洞松院がいるが…

文明十八年正月(1486)の記事。ここに注目すべき記述がある。
「昨日興希文来曰、山名金吾息宗傳。字芳心。有試筆詩。彩霞春加一様花。和之可也。蓋南禅栖眞院美少年也。」 (正月十四日条)
この山名金吾とは政豊のこと。南禅寺栖眞院は山名常熈開基の塔頭である。そこで修行をする十代半ばの若き宗傳芳心は政豊の息である。
その芳心は美少年と評されていた。
この芳心こそが俊豊の弟にあたる後の山名致豊である。
山名の起死回生の一手。
そしてこの致豊の子が山名祐豊、豊定である。豊定の子、致豊の孫にあたる山名豊国は『因幡民談記』に器量の世に優れた武将と評されている。その後山名を継いだ者達は美形の血筋であったといえるかも知れない。
山名氏の肖像画は常熈と豊国しか確認出来ないのが残念だ。

参考『蔭凉軒日録 巻二』、『蔭凉軒日録 巻四』、『但馬の中世史』、『赤松盛衰記-研究と資料-』、『禅文化研究所紀要 26号』、『山名豊国』、『山崎城史料調査報告書』他

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