2017年3月7日火曜日

文化系政則 後

続き
狩り
政則は武家の嗜みを疎かにしていない。
狩猟、鷹狩、犬追物に関連する史料も幾つか見られる。
「赤松此間数日醍醐水本坊ニ在之、鷹仕之云々、近日宇治橋寺ニ在之鷹用云々」 『大乗院寺社雑事記』
延徳二年(1490)四月二十九日に播磨で政則は狩猟をしている。その際家臣の魚住又四朗の放った矢が 誤って難波新四朗に当たって死なせてしまったという。『蔭凉軒日禄』

そういえば政則が亡くなる前に鷹狩りをしていたという話もある。
「政則御煩ひあり。御慰に御鷹野に御出。坂田のくど寺と御宿にて、彼寺に御逗留候所に、思ひの外御煩取詰候へて寺にて御他界」『赤松記』

次は犬追物。
犬追物といえば宿敵の山名氏も家伝書を残す程の入れ込みようであり、時熈、宗全、教豊、政豊といった 山名歴代も犬追物を好み、山名一党の者も人々の犬を掠奪し、終日犬追物を射た程である。
政則も何度も犬追物を張行している。
明応二年(1489)九月八日に行われた犬追物は小寺、浦上等赤松家の者達が主な参加者となって行われているが、この日は政則も加わっている。検見は上月則武。この家、楽しそうだ。

犬追物は犬馬場と呼ばれる広場で行われる。
犬追物を描いた絵は幾つもあるが、絵の中の犬馬場にあるように犬が逃げまわり、馬が駆ける、矢が飛ぶ、見物の為の桟敷に柵と、犬馬場にはある程度広い場所が必要であった。
広大な敷地を持つ細川邸は馬場の施設もあったようだが、赤松邸には流石にそこまでのものは無い。政則は犬追物を張行するにあたり、安国寺、妙覚寺、本能寺といった寺の敷地を使用している。
犬追物をする寺を転々としているところをみると、寺側も馬場として使用するにあたり 難色を示したのであろう、敷地を借りるのも容易ではなかったと思われる。それに犬射蟇目矢という特殊な矢を使用するとはいえどうしても殺生を伴う。騎射は寺に相応しくない催事であった。

更に政則は播磨でも犬追物を行っていたようで延徳二年に
「当年赤松殿赤松ト言所ニ、山ヲ引ナラシテ犬馬場ニ用意云々」 『蔭凉軒日禄』

平地を利用するのではなく、わざわざ山を造成してまで馬場を用意させている。
政則の犬追物熱も負けてはいない。

狩りで汗を流した後の温泉は格別。
政則は温泉好きであった。
好きな温泉は美作国湯郷温泉。
現在も温泉地として有名。この温泉に政則は度々湯治の為に訪れている。
『蔭凉軒日禄』によると
「去月廿九日赤松公爲湯治作州下國」 長享二年十月四日条
「赤松公作州湯郷湯治了、去十六日被回駕於播之赤松舊宅云々」 延徳二年六月二十三日条

政則は美作、湯郷温泉に滞在している間は垪和氏の屋敷や長興寺などを宿所としている。「長興寺以可替赤松公之宿云々」
この寺は現在もあり湯郷の観光名所の一つ、御越しの際は是非お立ち寄りを。
政則は他に山城の温泉にも赴いている。

故実書絵画
侍所所司を務めた程の政則は武家故実についても関心を持っていた。
政則は飛鳥井雅康から『蹴鞠之書』を贈られている。
当然蹴鞠を嗜んだのだろう。政則の蹴鞠姿を想像する。
また小槻晴富には『矢開記』を所望し、その写しを手に入れたりもしている。

政則は絵も欲しがっていた。
肖像画。
誰の?

なんと足利義尚。
ことの発端は義尚の死去から始まる。
長享三年(1489)三月二十六日足利義尚が死去。翌月の九日に葬儀が行われ、その際狩野正信が描いた義尚の御影が使用されている。足利尊氏の御影も尊氏周忌に使用された記録がある。
その数日後、義尚の母である日野富子が尊氏像を観たいと所望した。
尊氏像は束帯姿である倭歌御絵と甲冑御絵があったが、その後狩野正信が義尚の出陣絵を描くこととなったことから、富子は息子の肖像を尊氏の甲冑御絵にならって描かせようとしたと思われる。母の愛か。
ちなみに義尚も尊氏像に関心があったようで等持寺にあった尊氏像を取り寄せている。
五月に入り義尚出陣之像の下絵が出来たので亀泉集證に見せたところ、同席していた政則が義尚像作成を依頼したのであった。

「狩野大炊助持常徳院殿御出陣之像下絵来」
「約政則公之所請画像之事」
 
 『蔭凉軒日禄』長享三年五月四日条

その後七月になり政則の所望した義尚像が完成した。

「赤松所誂常徳院殿画像、自狩野助方来」
『蔭凉軒日禄』長享三年七月四日条

政則が手に入れた義尚像はどう使用されたのか、その後どうなったのかは不明である。
赤松政則の文化的な面を見て見たが、赤松家が大名として残らなかったのは本当に残念とした言いようがない。これだけの家の歴史や文化が残され伝えられていれば、どれだけ今の歴史に貢献したことか。

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