2017年3月10日金曜日

一蝶の話 


先日古本店で図録『元禄繚乱展』を購入した。
平成十一年に放送された大河ドラマ「元禄繚乱」にちなんで開催された企画展の図録。
内容は武家、町人文化、赤穂事件、忠臣蔵をテーマに資料、解説ともなかなかの充実ぶり、 展示を是非見たかったと思わせてくれる。

その中でも目にとまるのは「布晒舞図」という布をまわす舞手の躍動感のある絵。
大河ドラマ元禄繚乱のOPのラストでも登場して華やかさを演出しているが、今回はこの絵の作者の英一蝶の話。

英一蝶は江戸中期に活躍した画人。
承応元年(1652)京で誕生、幼名猪三郎後に次右衛門、助之進、剃髪して朝湖となる。
父の多賀白庵は伊勢亀山藩石川氏の主治医。十五歳又は八歳の頃江戸に下り、石川候の勧めで狩野安信に入門、狩野派の画風を学んだが、後に破門となる。
書を佐玄竜に学び、俳諧を芭蕉に学び、其角、嵐雪等と交りが深かく、其角とは生涯の友人であった。
翠蓑翁、牛丸、暁雲堂、旧草堂、一蜂閑人、和央などの諸号を持つ。
二代高嵩谷が晩年の一蝶の肖像画を残している。英一舟が晩年の一蝶を描いたものの模写である。
片膝を立て、大きな鼻と耳、深い皺に上目づかいの目と伸びた眉。
同時代に生きた人々は一蝶の姿をみて
「身の丈大きくあばたづら」
「鼻の先あかくありて、大なる鼻」
と言い伝えている。

賛に書かれている辞世の句
「まぎらはす浮世の業の色どりもありとや月のうすゞみの雲」
波乱の人生を生きた人の姿である。

幕臣小宮山龍溪は一蝶の人となりをこう記す。
「色白く、眼大きくすさまじく、言語は静かな生まれ付き、絵は名人也、生得欲深くして機嫌取の上手也」
『一蝶流謫考』
一蝶が学んだ狩野安信は『画道要訣』という秘伝画論書で狩野派の論理を伝えている。
「夫、画有質、有楽。質と云は、生れ付て器用なる天性の質有、学と云は習学で其道を勤て其術を得たるをいへり」

画技には天性のものである「質画」と修練して身につける「学画」があるという。
「我家に云伝は天質の器用を以って書き出すのを尊ばず」
天性のものである質画はその画家一代限りで終わる性質のものであり狩野派では尊重されなかった。
「学之至るはくるしみて伝ふれども、万代不易の道備て、子孫是を受て 失わず。書伝へ、言伝へて、後世に其道を残す。 画は法を始めとして、妙極を次とす」
狩野派のあり方は古典、模本をひたすら写し真似て、画技を磨くことにあった。
一蝶の個性的な画の基本にはこうし朝湖時代の蓄積がある。
この後岩佐又兵衛、菱川師宣らを意識し浮世絵にも関心を高めていく。
二十代、三十代の一蝶は俳諧、浮世絵と遊興の世界にいた。
楽しい世界が好きだった。
一蝶は狩野派の格調高い絵画を学びながらも、風俗画、戯画、人々の日常を描いた絵画を多く残している。
傀儡師、猿曳、一人相撲など市中に見られた娯楽。遊楽、華やかな都市風俗、吉原を描いた作品。
盲人達もユーモラスに描く。
「盲人騎乗図」は盲人が乗った馬が暴れて傘が舞い、主従が困惑する様子を。
「群盲撫象図」は盲人達が象を触りまくって象が迷惑している図。
座頭が垣の隙間から中を覗いている図、犬が吼えたてているのもおかしい。
「寒山拾得図」は居眠りしている拾得の顔に落書きしようとしている寒山の姿。
一蝶の描く風俗画や戯画には下品さはない。
一蝶(この頃は朝湖)は仏師民部、村田半兵衛ら仲間と頻繁に吉原など悪所通いをし、大名旗本に取り入って金銀をばらまかせている。
彼等は太鼓持ちとしても名が通っていた。
「大尽舞」の歌詞に
「さてその次の大尽は奈良茂の君でとどめたり、略、付総ふたいこはたれたれぞ、一蝶民部にかくてふや」 
『大尽舞考証』※かくてふ(角蝶は村田半兵衛)
一蝶の吉原話で「女達磨」というものがある。

吉原の妓楼、近江屋の拘えの半太夫は十年勤めてようやく苦界を脱して良家の夫人となれたという。
この話を聞いた一蝶は 「すべて女郎の身の上は、四季折ごとに見世へ出て、昼夜面壁同前たり、達磨は九年、我には苦界十年なり、達磨のうは手なり」
『当世武野俗談』
達磨大師の面壁九年の故事よりも凄いと戯れに半身美人の達磨絵を描き、人々は一蝶の着想の妙と画才に驚いた。
先の一蝶を評した龍溪は仏師民部、村田半兵衛らについても評している。

「此民部は、色黒にて菊石面顔也、頬骨高く、痩男也し、中々咄相手におもしろく、愛敬坊主也」

「村田半兵衛は美男也、月見の歌の文句にも、色の村田の中将の、と業平に比したる程の美男也、茶の湯、蹴鞠をよくして、風流のもの也、日頃の自慢は、吉原中の女郎何万人か在らんが、そのものゝ年、又色客の名、其他吉原中の事、何にてものこらず覚えてをる、といひし」

おだて上手、絵上手、声も良く小唄をよくうたったという朝湖、話上手で愛敬のある民部、色男で賢い風流人の半兵衛。
この三人がチームを組んで 御大尽を悪所に誘いだし金銀を使わせて楽しむ。最強だ。

誘い出された放蕩した殿様の御歴々井伊直朝、本庄資俊、六角広治。
多賀朝湖 四十七歳。 越えてはならない一線を踏み越えてしまった。


英一蝶達が遠島になった理由ははっきりしない。
先の本庄資俊、六角広治等は桂昌院の縁筋であった、そのような人々を花街に誘い出して大金を使わせるという、将軍家から遠からぬ醜聞。
何事も無く終わるはずはない。
これが配流の有力な原因といわれるが、他には「朝妻舟図」「百人女﨟」といった一蝶の作品の中で将軍綱吉や側室おでんの方を 風刺した罪や、幕府が禁じていた不受布施法華に帰依した罪など諸説ある。
表向きは生類憐みの令に抵触した罪とされたという。

藤岡屋由蔵が残した『藤岡屋日記』の中に一蝶に関する資料がある。
元禄之頃、御船手逸見八左衛門之内書付あり、左之通り。              
                 呉服町壱丁目新道 勘左衛門店   
   北條安房守掛り    多賀 朝湖 四十二歳
是は御詮議之義有之候二付安房守宅ヨリ揚屋入
右之者、元禄十一年寅年十二月二日三宅島ヘ流罪、御船手逸見八左衛門へ渡ス
            本石町四丁目、茂左衛門店
  宝永六、九月大赦依而帰国       仏師民部
            本銀町二丁目、治郎左衛門店
                     村田半兵衛
元禄六年酉八月十五日入。  
   是ハ朝湖一件之者ニ而御詮議有之候間、安房守方より揚屋ニ入。
右之者共、元禄十一年寅十二月二日、八丈島へ流罪、御船手逸見八左衛門へ渡ス。                                            
一蝶達の遠島の期間や投獄されていた期間が様々異なって書かれているのは、元禄六年に入牢した 記録がある為でもある。この時は数カ月程で釈放されている。
元禄十一年、一蝶こと多賀朝湖の伊豆三宅島への遠流が決定した。
時期は定かではないが狩野派からの破門も言い渡されている。
「公事方御定書」によると流罪は「遠島」とある。
主な罪状は隠鉄砲、不受布施僧、隠れ切支丹、殺人、 放火、悪質な窃盗、身内への救助義務過怠など、遠島の罪は死罪に次ぐか準じるものであった。

流罪は無期が原則。
遠島の言い渡しを受けた者は、追放刑に準じた手続きが進められ、小伝馬牢屋敷の遠島部屋に入れられ、出帆までここれ待つ。
ある程度人数が溜まるまで在牢して待つことになり、一年以上待つ場合も少なくなかったという。先の三人の日付が同じ理由にはこうした事情もある。
配流地が決められる「島割り」が流人達に知らされるのは出帆前日。
朝湖は三宅島、民部と半兵衛は八丈島と決まった。
伊豆七島とは大島、八丈島、三宅島、新島、神津島、御蔵島、利島のことをいう。
伊豆流刑は当初は大島までであったが、宇喜多秀家が八丈島に送られて以降、大島以遠への島流が進められていった。

遠島が決まった者には身寄りの者から制限付きではあるが届物が許されたが、刃物、書物、火道具などは許され無かった。 届物が無いような者には金銭、薬などが給与された。
こうした具合であったので当然画材など持って行きようがない、しかも都市風俗を好んだ朝湖にとって三宅島は描くべき対象もない孤島。
更に遠島になった者には、船中での病死、島での餓死、島抜失敗による死罪、銃殺など悲惨な最期を遂げた者もいる。
想像していた遠島より随分と過酷な刑であったようだ。
どうなる朝湖。




・・・三年余後。

朝湖は島民を相手に米や酒を売る小店の主をしていた。
そして三宅島、八丈島、御蔵島、新島など伊豆諸島の島民の注文に応じて仏画、七福神図、絵馬等をを描いて暮らしていた。

新島の有力者梅田藤右衛門は配流中の朝湖のパトロンであった。
藤右衛門宿所が大火事により類焼した時などは 火事見舞として七福神図を描き贈っている。又七という仲介人も得た。
作品の代金ですぐに米を調達してそれを頂きたいなどの書簡も残っている。食糧事情は切実であった。
不便な生活ではあるが技術を持っていた朝湖は何とか暮らしていたようだ。
また水汲女を現地妻として一子をもうけたとも伝わる。

このころの苦労を示すものに、朝湖と其角のやりとりがある。
 初松魚カラシガナクテ涙カナ  一蝶
 其カラシキイテ涙ノ秋魚カナ  其角
当時鰹は皮をひかない状態で刺身にして食べたという、その時の調味料が辛子醤油。鰹のタタキを教えてあげたかった。
一蝶には「松魚、赤貝、螺、蛤」という松魚を描いた作品もある。『群蝶画英』
「布晒舞図」「四季日待図巻」「吉原風俗図巻」「見立四睡図」といった名作は三宅島時代に描かれたものとされる。
画材のとぼしい流島生活では絵を描くにも苦労が絶えない。
この時期に描かれた作品には水墨画、略画が多く、色付きの作品も薄い色彩で描かれているという。厳しい環境にあった 朝湖の苦労がしのばれる。
遠い江戸の生活を懐かしんで吉原や遊楽、都市風俗を描いたとされるが、これ程の作品はは記憶だけで描けるもではない。 吉原の景色も行き交う人たちも、傍らにある行燈や壺、植物も繰り返し修練して身体に沁みつけた 朝湖の人生の証である。

ところで三宅島時代に朝湖が描いた作品は島一蝶と呼ばれるが、伊豆の島々にあった作品は殆どが、江戸期に商人達に買いあさられ持ち去られてしまっている。
元禄十五年(1703)十二月十四日 赤穂四十七士の吉良邸討ち入り。

宝永六年(1709年)一月 五代将軍綱吉死去。
この年、将軍代替の大赦があり、生類憐みの令に関連した罪人達にも赦免された。朝湖、民部、半兵衛達もこの大赦の恩恵を受けることが出来た。
 生類憐みの令「馬の物いひ」の罪で悪夢を見たが、これにより朝湖は救われた。
恋い焦がれた江戸に帰れる。

晴れて江戸に戻った朝湖は画名を胡蝶の夢にちなみ英一蝶と改めた。
長い三宅島生活で枯れかけた一蝶の画才の泉は再び溢れていく。

最期に一蝶が描かれている作品について。
「元禄繚乱」に英一蝶が登場していたとは知らなかった。 演じられた方は片岡鶴太郎、成程。

小嵐九八郎『我れ、美に殉ず』
久隅守景、英一蝶、伊藤若冲、浦上玉堂の四人の絵師達の短編小説。
一蝶は人の顔色を伺う胡麻すり、容貌にコンプレックスを持ち、都市生活に執着を持つ人物として描かれている。
資料を丁寧に物語に編み込み、一蝶の一人称語りで物語はすすんでいく。
江戸への望郷の念、画材調達と其角との友情はこの江戸時代に生きる一蝶の独特語りがあるからこそ、更に迫るものがある。
絶望の淵から傑作を生み出す原動力はどこからきたのか、歴史小説の良さを味あわせてくれる一冊。

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