2017年3月10日金曜日

鹿の話

先日少し気になった史料。
 鹿乃あひ火食候之人、又其合火食候人、如此甲乙丙、其外かやうのまハり 
 具以可被注申之由候也、恐々謹言       
       七月九日         持貞(花押)      
      田中殿 
              
石清水文書」。どうやら鹿を食用にするような、何かの質問のような内容だが…今一つ理解出来ない。
 もう少し見てみる。
持貞とは赤松持貞、田中殿とは田中融清のこと。
赤松持貞は赤松庶流。赤松円心の子貞範の孫に当たる。 将軍義持に近習として仕え、室町殿(義持)と社寺の連絡、調整役を担っていた。
持貞といえば容姿の美しさから義持の寵愛を受けた話や 赤松家の騒動の原因となった話がある。田中融清は石清水八幡宮社務、検校。田中系に最盛をもたらしたが、八幡神人等の強訴による騒乱事件が起き解任されている。

 石清水八幡宮の社務職は凶事があると社務の交替を行うとされてきた。
室町時代においては足利将軍の死去も凶事とされた為、将軍の代替わりがあれば社務も替わる仕組みであった。
融清は義満代の社務であり、義持代の社務職は善法寺宋清であったが、 宋清は「神事奉行緩怠」『建内記』であったので解任され、融清が再任されている。
さきの文書の年次は不明であるが、持貞がいることから融清の第二期社務の頃と判る。
 融清は応永十六年(1409)に第一期社務を解任され、十年後の応永二十六年(1419)八月に再任されている。強訴騒動による解任が応永三十一年(1424)六月であるので、文書の時期は応永二十七年(1420)から応永三十年(1423)頃 のものであると考えられる。
 ところで宋清が解任される直前に応永の外寇が起きているが、こうした事件も何か凶事として関係しているのだろうか。
本文で気になったのが「あひ火」。
次の文字に「合火」とある。

「合火」とは?
合火とは喪や穢れなど忌みごとのある家の火を用いること。
関連する言葉に、同じ火を使い合う「同火」、神事、祭事に使用する火と日頃使用する火を分ける「別火」などがある。
忌事や肉食は穢れとされ、火を通じて穢れが他に移るとされた。
当時はそう安易に火を起こす事が出来なかったので、火は火種として使いまわされていたが、合火を介した火を又合火といい これも又忌まれた。
この文書は「鹿乃あひ火」とあるので鹿食の合火、又合火の触穢についてどこまで穢があるのかを 持貞が融清に質問しているものである。
当時獣肉食は穢れのあるものとされ、これを犯したものは神域に近づくことを憚られていたのだ。 

 果たして鹿肉の穢れとはどの程度のものであったのか。
宛ては無いが融清の鹿合火についての融清の見解らしき書状がある。
「鹿[  ]ヶ日、同火之人と又同火、三七ヶ日候、得御意可有御披露候哉」
欠字もあり、これだけでは良く判らない。
もう少し詳しく判らないものかと調べてみると 『続群書類従 神祇部』の中に「燭穢問答」を見つけた。 問答形式で穢れについての見解が書かれているのだが、これがなかなか細かい。

例えば爪を切っての神社参詣は問題が無いが、血が出ているのであれば差し障る。
怪我をしている者は忌む。
「凡神事ニハ血ヲ忌。血ノ出ル間ハ忌ベシ」
血は忌むべきものであった。
人を殺害した場合は切り捨ては当日に限り穢れるが、すえ物であれば三十日。
すえ物というのは試し切りの死体の事。
首を切った刀は三十日間穢れる。
首を刎ねる時、縄を曳く者は罪人が死ぬと同時に縄を放せば穢れない。
家の中で殺すとその家が穢れ、その家に入ったものも穢れる。

 物騒な話が多いが、こうした中に鹿食について書かれた問答があった。

「鹿食の合火事。鹿食人と合日は五十日穢也。合火の人に。又合火三十日穢れ也。三転の憚也。合火せずとも鹿食の人と同家せば、五日を隔て社参すべし。」

殺人をした者より穢れが重い事に獣肉忌の強さを感じる。
それに鹿以外にも獣肉は多種存在するはずだが、大型動物では鹿についての問答しか 見当たらない。
この次の説明を見ると  

「其故は六畜の死穢は五日也。鹿猿狐等は六畜に准ずる也。合家の者に同家は五日の憚りナシ。其者に合火せずば無憚。但六畜の死穢五日にして。甲乙の二転を憚る。若相混ぜば五日を隔べし」とある。

六畜とは馬・牛・羊・犬・豕・鶏の六種の家畜であるが、これに鹿猿狐も準じるという。
天武天皇代の肉食禁止令以降、神道の米の神聖視と仏教思想による殺生罪により 肉食は排除されてきたが、この頃になると六畜は既に問答の対象以前の禁忌であったようだ。
しかし肉食全般が禁忌とされた訳ではない。

「羚羊狼兎狸の合火憚や。答。不及沙汰」

 カモシカや兎、狸といった肉食の合火は穢れにならないという。これは穢の軽重でみると魚食と同じレベルの扱いになる。
鹿が特別扱いされたのは神事における供物であったからでもある。
現在でも鳥獣による農作物被害の内半数近くを鹿猪が占めているが、当時も鹿による被害は深刻であった。
こうした鹿を狩る事は農作物に豊かな実りをもたらす事に繋がった。
現在でも各地の神社で鹿の狩猟を模した神事が行われており、諏訪の鹿食免などは鹿供物の例である。 朝来郡粟鹿神社のように鹿が農耕をもたらしたとして、鹿を祀っている例もある。
そして武士達にとっては狩猟は武力の象徴であった。
覚えきれない程細かに燭穢が定められているが、これを厳密に守ろうとしたのは貴族、武士達である。
さらに神社により禁忌の範囲も異なる。

『諸社禁忌』によると鹿猪を食べた者は百日の穢れ、共食したものは合火二一日、又合火七日の穢れとある。
石清水八幡宮では魚食三日、兎十一日、鳥食十一日、鹿食百日、同火三十日、猪食鹿と同じ、猿食九十日としている。『八幡宮社制』
 室町時代では神社禁忌も他の故実同様、多岐複雑化しており、独自の家伝書等も頻繁に作られている。こうした禁忌は世間一般に認知されたものではなく、正確に実践しようとするのであれば相応の教養が必要であった。
だからこそ持貞も質問している。
 まして中下層の人々にとっては大して関係の無い話であり、肉食も普通に行っていたようだ。
村人たちが猪を山鯨と呼び、魚の仲間として、兎は鴉鷺で鳥の仲間と称して食べていた話もある。
 またジョン・セーリスが『日本渡航記』に慶長年間の日本の食糧事情を記録しているが、「 日本での食べ物は全般には米食であり、次に魚、葉物、豆、大根、根菜。野禽、鴨、雉などの鳥を食べる。 鹿、猪、兎、山羊、牡牛もおり、豚肉や牛肉も売られていた」と記している。

 鹿食について見てきたが、最後に室町将軍の話。
「矢開には一に鹿、二に雀と申す義也、但鹿は公方様にはあげ申さず候なり」『矢開之事』
将軍と鹿食を遠ざける旨が書かれている。かつて貴族達は狩猟を武士に任せて、自らの身辺から遠ざけたが…
将軍は特別な存在であるとされた事例ががこうした所でも見られるのだ。

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