2017年3月10日金曜日

石の戦


今年は雪が少ない。大人になった今でも冬になると、昔雪玉を投げて遊んだ雪合戦のことを思い出したりする。そして、雪合戦とあわせて思い出すのが、当時、漫画か授業だったかで知った家康の石合戦。今川家の人質であった竹千代が、五月五日に阿部川の河原で行われた石戦を従者と見物に出かけた際、勢の多い組と少ない組が戦うのだが、多い組は数を頼り油断し、少ない組は一生懸命に戦うので少ない組が勝つだろうと当てた話。
現代でも通じる教訓的な話で、『武徳大成記』など家康関連の史料に書かれている。

ここに書かれているような石戦は中世から近世にかけて、庶民の間で端午の節句の日などに行われていた。

石戦は印地打といい、端午の節句の場合は菖蒲打ともいう。
双方に分かれて石を投げ合う行事や争いであり、当然怪我をすることも多かった。
明応五年(1496)五月五日に京都で印地打が流行した時は、死人や手負いの者が大勢出たとあり、(『実隆公記』)応安二年(1369)四月二十一日に行われた賀茂祭では、日暮れ頃、雑人達が一条大路で戦い始めて印地打となり、死者が四五人出たという。付近の状況は「通路流血之条」と表現されている。(『後愚昧記』)
祭りに際しては兵達が警護についたとある。いまでも祭りの日には警官と喧嘩騒ぎがつきものであるが、当時は増して物騒だったようだ。
印地打は石を投げあうだけなので費用などはかからないように思える。しかし史料を見ていると印地の為に家を差し押さえる話や、印地家代と称して金銭を支払わせた例も見られる。(「興福寺官符衆徒衆会引付」)公の行事として行われた印地打は儀式、規模もそれなりのもので、伴い費用も発生するものであった。
踏み込んでいないので詳しくはわからないが、祭りの為に家を差し押さえるのは気の毒な気がする。
行事で行われた石戦でも多数の死傷者が出る。まして実際の戦で石を投げたとなるとその効果は絶大であった。
石はもっとも原始的で身近にある武器であり、古今東西に使用例が見られ、とりあげるとキリがないので中世あたりから少しみてみようと思う。
戦時における投石では武田軍の投石部隊が有名である。
元亀三年(1573)十二月、信玄が三方ヶ原で家康と戦った時のこと。

『信長公記』には
「武田信玄水役之者と名付、二、三百人真先にたて、彼等にはつぶてをうたせ候」
と先陣に投石兵を投入した記述がある。
推太鼓を打ちながら襲いかかってくる武田軍、これは恐ろしい。


そういえば印地打が描かれている絵などをみると、組の中に太鼓をもっている人の姿がみられる。
打音により人々はさらに高揚して、合戦はより激しくなっていく。これでは死傷者が出るのも当然である。
『太平記』では赤坂城に籠る楠木正成が、迫る幕府軍に対して大木や大石を落として防戦した記述がみられる。また島原の乱では原城に籠った宗徒達が、材木、火を付けたかや、鍋、石などを投げ落して抵抗したという記録がある。(「野尻松斎宛書状」)城を守備する兵達が石を落として敵を防ぐという記述は多くの軍記物にあり、但馬でも竹田城や岩山城などで、大石を落として羽柴軍と戦う話がみられる。(『武功夜話』『但州一覧集』)このあたりになると信頼度に難があるが、実際の山城でもこうした投石用とされる石が見られる事例が多くある。
備後一条山城、美作医王山城、因幡蛇山城、但馬岩井城、近江佐和山城、飛騨三枝城、越後片刈城をはじめ全国各地で見られ、飛礫が戦の常套手段であったことがわかる。飛礫用の石は集石した状態で曲輪などから見つかっており、丸みを帯びた河原石である場合が多い。
岩井城では拳大から20㎝程度の角礫が飛礫として発掘されている。
大きいものは両手持ちでないと運搬出来そうにない程であり、投げるよりむしろ落として戦ったと考えた方が良いかも知れない。殺傷能力は推して知るべし。当時の兵達が飛礫により負傷したことは史料にも見られる。応仁元年(1468)九月、京都今出川であった合戦に関する史料「吉川元経自筆合戦太刀打注文」によると、元経(経基)配下の浅枝上野守、浅枝孫五朗、三宅図書助が飛礫で負傷したとあり、続く十月の鹿苑院口合戦でもまた浅枝上野守、浅枝孫五郎が飛礫により負傷している。 (「吉川文書」)

月で負傷する勇敢な浅枝一族、流石は鬼吉川と呼ばれる将の兵達である。
この史料にある「於鹿苑院口之櫓手負」の記述から、乱初年から戦用の櫓があったことがわかる。
おそらくこの櫓から落とされた石により、湯枝氏は負傷したのだと考えられる。当時の戦の様子を知る記録としても面白い。
天文十八年(1549)石見国安濃郡大田表の合戦で出された軍中状の史料である「吉川経冬軍忠状景写」には、経冬配下の町野掃部助が矢疵を右足に、左足には礫疵を受けたとある。郎従三人の内の一人も左肩に礫疵を受け、残る二人がそれぞれ弓矢で敵を仕留めたという。 (「石見吉川家文書」)当時の戦が弓矢と礫が飛び交う戦場であったことをうかがい知ることが出来る史料。
それにしても掃部助は両足に怪我をする程の率先垂範振りで部下を率いていたのか。なんとも従い甲斐のある上官である。
どうして吉川家にはこうときめく人たちが多いのか。
この他、天文十一年(1542)の出雲赤穴城、永禄六年(1563)の白鹿城、熊野表の合戦などでも飛礫による負傷者が出た記録がある。城を守る手段として投石が安易かつ有効であり、入手も容易であったという理由から多用されたと思われるが、攻城側が投石をしたという話もある。元亀二年(1571)八月、山中鹿介が籠る伯耆の末石城を吉川元春が攻撃した。
八月十四日付の毛利輝元書状写に
「至伯州末石之城、元春其外取懸候、一両日中可為一途之由候間」とある。(『閥閲録』)
毛利の攻撃は凄まじく、寡兵の鹿介は支えきれずに城は僅か数日で落ちる。
二十日には「末石就落去之儀示給候」と元春が語っている。
この戦は『陰徳太平記』をはじめ幾つかの軍記に描かれており、『老翁物語』には「先づ末石へ召懸られ候。
当日より城の廻り、柵を御結せ成され、其間各々罷り居り候。
城の土手たかく候て、此方よりの矢鉄炮しかじか役を仕らざるに付て、俄に西棲を三重仰せ付けられ、それより矢鉄炮の儀は申すに及ばず、礫を打籠め候」

と毛利軍が攻城櫓を置いて、櫓から弓矢鉄砲、礫で攻撃した記述がある。
僅か数日の攻城戦でこうした施設を置けたのか疑問ではあるが、城攻め側も投石を用い得たことがわかる。他の事例でも良いので裏付けが欲しいところ。次は投石でも少し変化球を。『園太暦』によると延文四年(1359)年八月。都で天狗が横行した時の話!!冷泉室町辺では小童が天狗にさらわれる事件が起き、さらに「又以飛礫打所々、武家権勢道誉法師宅打之、以外事云々」とある。当時天狗達は都のあちらこちらで投石をしており、佐々木道誉宅にも打ちこまれたのだという。
梅津辺りでも天狗による投石があり、これに耐えられなくなった僧が引っ越しをしたと書かれている。京都は怖い。
天狗と石といえば天狗礫という怪異があるが…。
最後は石合戦の話に戻る。応永二十七年(1420)七月十五日、相国寺で盆の施餓鬼供養があり、その際に喝食達の間で石合戦が行われた。
しかし、ここでとんでもない事故が発生したのである。
「相国寺施餓鬼之間、喝食数輩以飛礫打合、室町殿御烏帽子ニ飛礫打当、喝食悉被追出云々」 (『看聞日記』)なんと、この様子を見物していた将軍足利義持の頭に石が当たったのだ。とんでもないことだ。幸いにも、喝食達は「出ていけ」と追い出されただけで済んだようだが、もう少し後の将軍だったら命は無かったかも知れない。
歴代足利将軍は波乱に満ちた生涯を送っているが、流石に石が頭に当たった将軍もいないと思う。

フォークでおとしてみた。

0 件のコメント:

コメントを投稿