2021年3月5日金曜日

出石散歩 -西の大竪堀ー

 

 出石城を訪れる人は鳥居の連なる階段を登り、或いは大手門からの登城ルートを使い、二ノ丸、本丸と巡り、最上部の稲荷曲輪でお詣りした後、出石城下の展望を楽しむ。という方も多いと思います。

 出石城は慶長八年(一六〇三)に小出吉英が山頂の有子山城から山麓の出石城へと主城を移行する為に整備をしたと伝わっています。稲荷曲輪、本丸、堀、石垣など出石城は近世城郭として整備されました。

 以前はこの時に有子山城は廃城となったとされてきましたが、最近の研究では有子山城も一部改修を施し、出石城も整備するなど両城を一体的に利用したと考えられているようです。有子山城は江戸期も管理され続け、今に至っています。

 今回はそんな出石城をより深く楽しむ為のスポットを。

 出石城には本体ともいえる石垣の城の東西の山斜面にそれぞれ大竪堀が存在します。その内西側の大堀切を紹介します。

出石城本丸の上にある稲荷曲輪。


稲荷曲輪から少し登ると更に石垣を持つ城郭遺構があります。
                               



稲荷曲輪上の曲輪。

 


曲輪に整列した石があります。何の施設だったのでしょう。


曲輪から伸びる登山道。
慶長期まではここが登城ルートだったとされます。
この曲輪はこの登城路を守る曲輪では?とも考えられています。
この曲輪からトラバースすると…

 


!!!こ、これは…


出石城西の大竪堀の起点にぶつかるのです。
ここは大竪堀の起点、鉤状に屈曲しています。


大竪堀。麓まで落ちています。かなり急です。


大竪堀麓より。



大竪堀は西の丸駐車場からも確認出来ます。

 かつてはここから水堀となり池に繋がっていました。現西の丸駐車場付近がその池でした。大竪堀は内堀と共に出石城を守る池、水堀から竪堀となり本丸を囲うように連続していたのです。


参考文献『「但馬国」出石の城を解剖する』、『豊岡市の城郭集成Ⅱ』、他

※訪問の際は史跡保護、安全、迷惑を掛けない事を最優先にお願いします。危険個所もあります。決して無理をしないように。




2021年3月3日水曜日

出石散歩 ー城下町大火ー

  城下町出石。皿蕎麦と時計台辰鼓楼で有名な但馬の観光地。町は城下町のかつての姿を諸所に残し、そうした歴史の名残を眺めながら町を歩くのも楽しい。

 今回はそんな出石城下町が大火事に見舞われたという話。なんと町の三分の二程が消失してしまったという物凄い火災があったのです。

 

概要

出石大火災が起きたのは明治九年(一八七六)三月二十六日夕刻の事。

火事の原因は入佐町岩鼻に独居する旧藩卒が泥酔して鰯を焼いた火の不始末と強風が原因という。火災に見舞われた町は谷山、伊木、材木、東条、入佐、魚屋、内町、本町、宵田、鉄炮、川原、柳、田結庄、水上。

ザクっとですが城下町絵図に火災町区を炎で記してみました。城下町東南の大きい炎が出火場所。堀が城への延焼を防いだ事もわかります。

 

井戸淳戸長報告

当時の戸長の報告によると、延焼町数十四、全焼戸数九六六、半焼五、焼死五名、負傷者十四、神社・仏堂三九、土蔵二九十、部屋一八六、物置き、水車小屋九七、掲示場一、橋全焼三、半焼四。

水車や掲示場、橋が重要な施設で管理されていた事を物語っているのも興味深いです。

火災の規模に比べて死者が少なかったのがせめてもの救いでは。でも犠牲になられた方がいらっしゃったのです。

 この大火事は遠い場所でも…少し離れた出石神社では中門付近に燃えた書冊が吹き飛んできたといい、さらに隣国丹後は宮津からも火の明かりが見えたと伝わる。

 そんな出石大火の名残も城下町歩きで見つかります。

 

火伏稲荷神社(東条地区)



明治九年の大火の際、出火町近隣にあったにもかかわらず焼失を免れています。

以降、東条地区の方々を中心に神社は守られてきました。

「火を伏せる神社として」

 

国朝天女御稲荷様(魚屋地区)

以前も付近にありましたが、大火以降にここに移転され、火の神として祀られています。この稲荷の使いは女狐といいます。

 影響

城下町の大部分が焼失した為、生活基盤を失った旧士族が出石離れをしたという。出石の三年後の人口は千人減の五七九七人でした。そして但馬の中心的役割を果たしていた出石に代わり豊岡市が代替機能を担った事も後の両町の差に繋がったようです。

また一説では出石城下の再建の為、急増した家屋建築の需要で木材が不足し、当時建てられた家は正面が立派で奥は見えないので省力化されたともいいます。

今回は出石大火についてでした。



参考文献『出石町史』第2巻 通史編下、他

丹後の言葉

 先日丹後の史跡を散策した際、出会ったご年配の地元の方と会話をする機会があった。その方が話される丹後弁は適当な表現かはわからないが、この地で長年暮らした方ならではの、自然で美しい丹後弁、耳に残るやさしい言葉だった。帰宅後も丹後弁のことが気になり少し調べてみることとした。

 

丹後弁の概要を理解するには言い回しを知るのが手早い。

何点か挙げてみると「えりゃー」「うみゃあ」「にゃー」「かまう」「ようけ」「わや」「ほうだなー」「おみゃー」といった言葉がある。有名な話ではあるがこれらの言い回しは東海地方、特に尾張弁と共通するものがあるのだという。共通点があるという話なので全く同じであるとの誤解がないよう。

丹後地方の方言についての研究では『丹後・東海地方のことばと文化』という調査報告書が京丹後市教育委員会より発行されており大変わかりやすい。今回の記事は多くをこの報告書に頼らせて頂いた。

 

 丹後地方でも方言は地域ごとに特徴を持つ。宮津市東部や舞鶴市は京阪式のアクセントで話し、宮津市西部、伊根町、与謝野町、京丹後市は東京式アクセントと、大きく二分される。京阪式は雑に説明すると所謂関西弁や京言葉に近く、東京式はここでは山陰地方の方言グループに属すると言えるという。市町の位置関係がわかり難い方には、丹後半島より東側が京阪式、丹後半島以西が東京・山陰式と感覚的に理解して頂いても良いと思う。更に丹後西端の久美浜は但馬方言にも近い特徴を持っているのだとする。

個人的な感覚でも福知山や舞鶴の方の話し方は「せやさかい」などの言い回しや発音など関西弁だな、少し違うなと感じることが多く、逆に久美浜の方は近しいものがあるように思う。

 

 東海地方の言葉はその言い回しを耳にした経験が少ないが、愛知県の中でも尾張弁は西日本的、三河弁は東日本的との指摘があるという。両者は兄弟言葉として注目されてきたが、その共通点を見ていく。位置関係では尾張弁と丹後弁は共に京阪地区方言の周辺、東西両端に位置するという共通性を持つ。

 

音声・音韻面にみられる類似性としては、二重母音の拗音化の共通がある(きゃきゅきょ…)。先に例を挙げた「えらい」が「えりゃー」にや、「赤い」が「あきゃー」がある。

音の変化の法則性の共通点を持の例には「ei」の転呼「おまえさん」から「おまいさん」、「u+i」の二重母音を含む言葉例「さむい」が「さみー、さびー」をはじめとした例、「無くなる」を「のーなる」のような長音化の例、「で」で理由や念押しを示す例「今日は雨だで」「これは嫌ですで」や「明日は来るんやで」など。こうした言葉の説明は大量の事例説明を必要とする為、自分のレベルでは把握もまとめる事出来ないので、この程度にしておく。

ちなみに柳田国男の方言周圏論、所謂「かたつむり」で説明すると丹後、尾張は「でんでんむし」系の地域となる。

 

両方言にみられる類似性は音声、音韻面、文法面にしても平安時代以降にみられる言語事象が殆どであるという。つまり、方言の共通化を考えるにあたり、平安以降の丹後と東海地方との関係性を調べる必要がある。しかし平安以降で尾張丹後間における集団的な人々の移動の形跡はなく、直接的な関係は推測し難いとされている。偶然に似たような言葉が使われるようになったのだろうか。

 

『丹後・東海地方のことばと文化』の記事を引用しながら丹後弁について述べてきたが、丹後と東海の中世期における共通点として、室町時代一色氏の分国であった点が挙げられる。

丹後は天正期の一色氏滅亡までその分国であったことが知られる。東海に於いては尾張智多郡、海東郡、三河国渥美郡が一色氏の分郡であった。

河村昭一氏によると、一色氏の智多郡支配は守護代、郡代にあたる職階を置かない一色氏の分国支配体制においては特殊な例であり、守護から直接、御賀本氏、倉江氏といった在地の者、小郡代的地位の者に下達するシステムを取っていたのだという。『愛知県史』では守護又代として延永氏系、遠藤氏系を不確定ながら挙げている。両者は丹後守護代でもある。

果たしてこうした一色氏の分国支配期に方言の丹後への移動があったのだろうか。やはり時代の支配者により方言や多数の人々の移動があったとは考え難いし、他国においてもそれが一般的であったという例は知らない。

 

他には畿内を支配した東海出身の織田、豊臣により東海方言が中央から地方に広まったとの説もあるが、これも納得し難い。

 

 丹後と東海を結ぶ線でもう一点挙げたい。『丹後国御檀家帳』である。中世丹後に於いては伊勢講が盛んであり、有力国人等もこの伊勢講を熱心に支援していた。田中純子氏は文亀・永正年間(150121)の丹後内乱以降、守護一色氏や石川氏、伊賀氏、小倉氏による三奉行体制では丹後国の突出した勢力を抑える事が出来ずにいて、丹後国を一国のまとまりとして保持しようとしたバランス維持システムに伊勢講、すなわち『御檀家帳』をその装置に組み込もうとしたとしている。

これから見ると伊勢の御師、伊勢講を通じて伊勢、東海地方との交流があった事は確実であるが、方言の共有とまではいかないだろう。

 

 方言に関する話が丹後にある。

中院通勝は京の公家である。天正八年(1580)六月に宮女の件で勅勘を被り逐電し、丹後田辺城の細川幽斎を頼った。丹後滞在期に通勝は入道し、也足軒素然と称した。その間に幽斎との親交を深め、歌道の師、幽斎より古近伝授を受けている。また幽斎の娘を夫人として、孝以、通村らを儲け、丹後で育てているが、この幽斎の娘は養女で一色左京大夫義次の娘である。

慶長四年(1599)に勅免を得て、十九年振りに京に帰ったが、舞鶴で生まれ育った通勝の子、通村らは京に戻った後も京都弁が話せず丹後弁のままだったという。まさに訛りはお国の手形である。そしてこの話は当時京と丹後で言葉が違っていたということを示している。

後に通勝は田辺城に籠城していた幽斎を諭す勅使の一人として田辺城に赴いている。

 

中世の方言といえば、フォロワーさんに教えて頂いた情報ではあるが、毛利氏においても方言の使用が認められるのだという。例を挙げると「きょくる」は人をまともに相手にせず、問題をはぐらかして言う意、「ざまく」は対象が目に余るほど雑なさまである意、「大儀がる」は骨の折れることを嫌がる、「てこ、てこをする」は人の手伝いをする、「ねばくち」は口が重いこと、「ひやうろく」は一人前の成人としてきちんと事をなすことができない人の意など。また『雑兵物語』は上州言葉が見られるのだという。

 

中世における丹後と東海の接点を見てきたが、方言の共通についての有力な手掛かりはわからなかった。アンテナを張り続けていれば、思わぬ分野からそのヒントがあるかも知れない。

 

追記 丹後と東海の方言共通に関する情報があれば教えて頂ければ大変嬉しく思います。 

又、幽斎養女の実父である一色左京大夫義次については全く詳細がわかりません。一色氏の一族だと思いますが、この人物の存在を知ることにより戦国時代の一色氏について知ることになります。こちらも情報提供をお願いしたいと思います。

 

記事:秋庭

 

参考文献

 『丹後・東海地方のことばと文化』

 『南北朝・室町期一色氏の権力構造』

 『京丹後市史資料編丹後国御檀家帳』

 『幽斎と信長』

 『細川三代 幽斎・三斎・忠利』

 講演レジメ「毛利元就親子三代のことば」

 その他

2017年3月22日水曜日

戦国時代の丹後 



 中世から戦国時代あたりで丹後ゆかりの人物は、と聞かれると、細川ガラシャ、幽斎、忠興と先ず細川の名があがる。また「天橋立図」を描いた雪舟、静御前、稲富一夢をあげる方、久美浜あたりでは松井康之の名をあげる方もおられる。そして丹後を語るに忘れてはならないのが丹後一色氏である。地元の方はゆかりの伝承もありご存知の方も多い。また細川好きの方も一色五郎、義有といった名をあげる方もおられると思うが、やはり一色氏の知名度は低い。一色氏の活躍が地味であり、また世間に広まるような伝承も少ないことから人気不足になった感は否めない。決定的なのが戦国時代の一色氏に関する史料があまりに無い為、その実態がわからないこと。

 丹後一色氏は一色公深を始祖とし、その孫にあたる一色範光が貞治五年(一三六六)に若狭守護に補任され、その子詮範に続く。明徳の乱で山名氏が没落すると、山名氏の分国であった丹後は一色氏が獲得し、明徳三年(一三九二)詮範の嫡子満範が入国した。以降約一九十年にわたって一色氏の丹後支配が続いた。
 一色氏は丹後守護であったが、丹後の守護関係文書、荘園関係の文書は非常に少なく、戦国時代においては、そうした史料のみならず丹後に関連するあらゆる史料が見当たらない。今谷明先生はこの時期の丹後を「闕史時代」と表現されている。
 永正十六年(一五二九)二月に将軍が一色義清に年始祝儀返礼の内書を遣わした『御内書案』の記録を最後に一色氏に関する史料は途絶え、大永、享禄、天文、弘治、永禄と前後五十年にわたってその動向がわからなくなっている。永禄の史料においても『言継卿記』で守護代延永氏の消息が一行あるのみで、元亀では『日御碕神社文書』に但馬丹後の賊船数百艘が神社や近隣の村で略奪をしたという記録がある程度という有様である。この『日御碕神社文書』にしても、私にはどちらかと言えば尼子再興軍や但馬の動向を探る史料という印象が強い。
 天正あたりになると信長関係の史料で一色氏の動向が垣間見られるが、丹後の状況を知るには情報が乏し過ぎる。細川藤孝が丹後に入り、一色氏は織田に下った後滅亡するが、この辺りの一色氏についても『細川家記』や『一色軍記』といった記録から推測するしかなく、一次史料では確認がとれない。

 上記の一色氏の状況は今谷明先生の「室町期・戦国期の丹後守護と土豪」を主な参考として書いた。現在は『宮津市史 史料編』をはじめとして丹後の史料の整理も進んでいるが、やはり一色氏に関する史料はあまりに少な過ぎる。
 この時期の丹後の状況を知る重要な史料が『丹後国御檀家帳』である。伊勢の御師が記した伊勢講参加者達の名簿であり、丹後一国の規模でまとめられている為、ここから一色氏家臣団の構成など丹後の支配状況を知る貴重な史料とされる。戦国期の一色氏の状況はこの史料に頼るところが大きい。
 丹後一色氏については今谷明先生、河村昭一先生等の研究や『宮津市史』といった自治体史などが参考になる。
 以前、丹後の歴史を勉強されている方とお話をする機会があった。何故ここまで一色氏の記録が残っていないかその理由すら不明だという。当時確実に一色氏と接点のあった寺社ですら文書が見当たらない。調査が進めば、木簡や刻文といった史料から手掛かりを得られるかも知れないので今後の進展に期待している。一色氏を調べるにあたっては、やはり周辺国や中央の史料や動向から探っていくべきだろうと。


 丹後の東隣国の若狭と丹後は度々争っている。若狭武田氏は武田信栄が一色義貫を殺害し、その功績により、将軍足利義教から一色氏の分国であった若狭を与えられたことから始まっているという因縁もあるが、守護代、国人らの動向も絡み合ってその事情は複雑なものとなっている。
 南隣国の丹波は細川氏の分国であるが、細川氏は丹後にも所領を有しており、丹後における武家関係領田積の一割近くが細川氏によって占められていたとみられている。丹波は丹後攻めの橋頭保のような役割を果たしており、細川氏の丹後攻めや織田の丹後攻めなど、度々丹波から丹後への侵攻が行われている。
 西の隣国である但馬には山名氏があった。一色氏と山名氏の間には婚姻関係が認められる。山名氏、但馬側の史料からみても丹後との争乱はあっても深刻なものではなく、比較的良好な関係が続いていたと思われる。但馬側にとってもこの時期、隣国丹後に関する史料は殆ど見られない。


 丹後は史料に制約があるだけで、誰もいなかった、何もなかったという訳では無い。丹後国内には多くの中世城館跡が見られ、その数は約五百八十箇所以上にのぼるとみられる。私も丹後の山城を訪れることがあるが、他所と同様に堀切、虎口、土塁、横矢懸りの工夫といった技巧が凝らされた見応えのある山城があり、村人や地侍クラスの小規模なものから守護代クラスの大規模な山城もみられ、戦乱の時代の丹後で人々が生きてきた証を見ることが出来る。


 今回は戦国時代の丹後に関する史料が少ないことをテーマにしたが、とりとめのない記事になってしまい、また勉強不足の為、挙げ損なった重要な史料や課題があると思う。マイナーな一色氏であるが、ネット上では多くの方が一色氏に関する記事を熱心に書かれており非常に参考になっている。真贋の見極めも必要ながら、手掛かりが多いことは有りがたい。個人的には山名氏についてもっと深く知りたいと思い、周辺の歴史も併せて考える必要があることから一色氏について調べたいと考えた次第です。
 最期に、生意気な事を書きましたが、素人の戯言、間違いや思い込みもあると思います。どうかご容赦願いますとともに、ご指摘、参考になる資料などがありましたらご教授をお願いします。



参考 『守護領国支配機構の研究』、『宮津市史 通史編 上巻』、『宮津市史 史料編 第一巻』、『南北朝・室町期一色氏の権力構造』、『出雲尼子史料集』、『京都府中世城館跡調査報告書 第一冊─丹後編─』、『図説 京丹後市の歴史』他

2017年3月10日金曜日

山名赤松合戦異聞


赤松政則は嘉吉に失われた領国を回復した赤松中興の祖である。
応仁・文明の乱をはじめ、多くの戦を経験した武人である一方、猿楽、和歌、蹴鞠、絵画などの諸芸にも通じた文化人でもあり、特に刀剣には強い興味を示し、自ら刀匠として作刀しているほどである。しかし政則を語るにはさらにもう一つ言葉が必要になってくる。
彼は美形であったのだ。
「赤松次郎法師、幼少より其心勇敢にして、其気大胆なり。剰へ器量礼容世人にすぐれ、寛正、文正の比、世に隠れなき美少年なり…」(『赤松盛衰記』)
この次郎法師とは政則のこと。六道珍皇寺にある政則の肖像画を見ると、デフォルメされた部分はあるが細面に切れ長の目、二重、筋の通った鼻と美形であったという政則を想像させる片鱗がある。
寛正六年十二月二十六日(1465)十歳の次郎法師が元服し義政から偏諱を与えられて政則と称するようになった時の様子が当時の日記に記録されている。

「赤松次郎元服出仕献御太刀御馬三十足。賜名乗仍又献太刀也。雖云少年、其威儀粛然、其起居進退可観。仍殿中人皆互相慶賀、愚又似有寵光也」 (『蔭凉軒日録』寛正六年十二月二十六日条)
まだ幼い政則は居並ぶ歴々の前でも動じることも無く、堂々とした立ち振る舞いであったと季瓊真蘂は記している。
今回の話はその多くを『蔭凉軒日録』に頼っており、特に断りの無い限り史料の出典は『蔭凉軒日録』とする。関係している記事は季瓊真蘂と亀泉集証が担当しているが、両者とも赤松氏に縁を持つ出自であることから、赤松氏に対しては特に好意的である点にも注意しなければならない。対して山名氏にはいささか冷淡な記述が目立つ。
政則は山名氏を宿敵として山名宗全、政豊等と激しい戦いを繰り広げている。今回はそんな政則と山名氏との違う形での戦いを取り上げてみたい。
宗全の跡を継いだ山名政豊。京都での戦いが終結し、領国但馬に戻った政豊はその後も播磨に攻め込むなど政則との戦いを続けている。しかし政豊の播磨攻めは政則に敗れて失敗に終わる。但馬に戻った政豊の求心力は低下し、家臣等は政豊に代わってその息俊豊を擁立しようとして、父子の泥沼の戦いが繰り広げられていく。
政豊には四男二女の子女がいた。長男の常豊は幼くして義尚に対面するなど後継を期待されていたが二十歳で早世している。俊豊は政豊との確執により山名惣領家を継ぐことは無かった。三男の致豊が政豊の跡を継いだが、家臣を抑えることが出来ずに若くして弟の誠豊に当主の座を譲り隠居することになる。『村岡山名家譜』によると女子の一人は一色上野介義嗣の室となったという。
政豊以降の山名の歴史を簡単に説明したが、話は少し遡り延徳三年(1491)将軍足利義材が近江の六角高頼征伐の軍を起こした頃に戻る。
義材の六角征伐の呼びかけにより諸大名らが次々と上洛していく中、山名政豊はその息、俊豊を名代として出陣させている。播磨での大敗の傷が癒えたかどうかといった時分である。政豊は先の義尚の近江出陣にも俊豊を名代として派遣している。八月十八日に上洛した俊豊は梅津長福寺に着いた。その兵は二千人、騎馬六十人であった。二十三日に出仕した俊豊。
「山名又次郎殿出仕、伴衆垣屋新五郎、太田垣、八木、田結庄、垣屋駿河守、村上。六騎、徒衆七十人許、或云百人許、因幡守護親子同参」 (二十三日条)
俊豊には垣屋両家、太田垣、八木、田結庄といわゆる山名四天王と呼ばれた家臣等と因幡守護山名豊時、豊重等が付き添っていた他ことが判る。
ここで亀泉集証のケチが入る。
「今日亦武衛御出仕。伴織田五郎、島田、飯尾、山下、織田與十郎、五騎有之、武衛衆壮麗勝於山名衆」 (二十三日条)
武衛とは斯波義寛のこと。同日出仕した斯波一行を見た亀泉集証は、先に見た俊豊達と比べて壮麗さで勝っていたとの評。厳しい。しかし辛口評価は更に続く。
義材の出陣に加わった諸大名には当然、赤松政則もいる。政則の軍は八月二十七日の義材の京都出立の時に、まだ山崎にあり遅れていた。翌二十八日になって政則軍は上洛した。
「赤松公入洛洛人挙群見之」 (二十八日条)
政則の上洛に際し都の人々がこぞってその行列を見物に出たのだという。都の人々は前日の将軍一行も見物しているが、京都を灰燼に帰した先の大乱から然程年も立たぬ内にもう軍勢を見て楽しむまでになっている。本当に逞しい。都に入った政則は亀泉集証と面会している。
「諸家兵優劣評之」 (二十八日条)
亀泉集証は都を出立する諸大名等の行列を見てその優劣の評価をしており、山名俊豊の軍勢をみた感想でこう記している。
「山名又次郎公諸兵皆不壮麗騎従之衆悉少弱者也、鹽冶周防守一人老兵也」(二十八日条)
俊豊の兵はみすぼらしく、騎上の武者も塩谷周防以外は若輩者ばかりであったというのだ。
この件については山名宗全与党であった六角高頼征伐に乗り気でない山名氏が形だけ合わせるために名代として若者ばかりを送り込んだという説もある。
先の播磨攻めの失敗で、政豊に従った国人達の受けた損害は大きく、特に垣屋氏は主だった一族を失っており、政豊自身も更迭問題があったばかりと、国内から目が離せなかったこともその要因にあると思われる。

「同族伯州太守六郎公、騎兵者十三員、標牌五百員、大壮麗也云々」 (二十八日条)
山名一族である伯耆守護山名尚之の軍勢は大変壮麗であったと評価されている。どうやら亀泉集証等は軍勢を実力や武装ではなく、その衣装、飾り具合など見た目の華やかさなどにより評価をしていたようだ。
都の人々も寺衆等も義材の出陣にパレードを見るようにお祭りとして楽しんでいたのだ。
いよいよ赤松政則の行である。
「凡一千二百四十五荷、此内馬駄多々有之、赤松公来、識與不識皆視其面骨、其服威雄、従後者騎兵五十五員。歩卒二千人許乎。馬上者皆不持弓矢、不被甲冑、只帯大刀耳。不亦一快乎」(二十八日条)
赤松は約三千人の兵による行列であった、政則はその行列の中ほどに居たことになる。注目を集めた政則の姿は、威風堂々たるものであった。赤松の騎乗の者達は皆武装をしていなかったという。

諸将の近江在陣も二ヵ月も経ったある日、亀泉集証は初めて山名俊豊を目にすることとなった。これまでは遠目に見るだけでその容貌などは判らないままであったのだ。

俊豊を見た感想は如何に。





「於湖濱山名又次郎殿出仕見之予始其面太醜面也…」 (十一月二十四日条)
この頃の俊豊は二十歳そこそこの年齢であったと思われるが、いくら赤松贔屓、山名に冷淡な見方とはいえ、これは余りな言いよう。酷い…
思えば宗全も赤ら顔の入道と呼ばれている。美醜では赤松氏に分があるのか。
赤松家にもその容貌を鬼瓦と評された洞松院がいるが…

文明十八年正月(1486)の記事。ここに注目すべき記述がある。
「昨日興希文来曰、山名金吾息宗傳。字芳心。有試筆詩。彩霞春加一様花。和之可也。蓋南禅栖眞院美少年也。」 (正月十四日条)
この山名金吾とは政豊のこと。南禅寺栖眞院は山名常熈開基の塔頭である。そこで修行をする十代半ばの若き宗傳芳心は政豊の息である。
その芳心は美少年と評されていた。
この芳心こそが俊豊の弟にあたる後の山名致豊である。
山名の起死回生の一手。
そしてこの致豊の子が山名祐豊、豊定である。豊定の子、致豊の孫にあたる山名豊国は『因幡民談記』に器量の世に優れた武将と評されている。その後山名を継いだ者達は美形の血筋であったといえるかも知れない。
山名氏の肖像画は常熈と豊国しか確認出来ないのが残念だ。

参考『蔭凉軒日録 巻二』、『蔭凉軒日録 巻四』、『但馬の中世史』、『赤松盛衰記-研究と資料-』、『禅文化研究所紀要 26号』、『山名豊国』、『山崎城史料調査報告書』他

武将達の言い分


戦国の世の人々は何を思っていたか気になるところ。
毛利関連の文書などからは隆元や元就、経家等の心情をうかがうことが出来るが、他の武将達はどうであったか。
史料を眺めていてふと目についたものも幾つかある。史料上の文言をそのまま字面通り受け取るのはどうかとも思うが、武将達の公の見解として簡単にみていきたい。

天正六年(1578)二月、別所長治が織田から離反して毛利についた。
昨年の大河ドラマでも取り扱われた出来事であるが、織田と毛利 が播磨を挟んで睨みあいを続けていた頃のもの。
毛利の誘いと期待、織田の勢いと逆らう者には容赦の無い姿勢。播磨の武将達ははどちらにつくべきか悩んだ。
天正六年三月二十二日付で小寺官兵衛に宛てた織田信長朱印状。
「今度別所小三郎、対羽柴筑前守、号存分有之、敵同意候
断、言語道断之次第候、然而無二令馳走之由、尤以神妙
候、別所小三郎急度可加成敗之条」
(「黒田家文書」)
信長は毛利に寝返った別所長治を「言語道断」となじり「急度可加成敗」と言っている。寝返りを多く出した信長であるが相手が信長に歯向かった時の文言。

この五日後に信長は秀吉に書状で上杉謙信が死去した事を伝えている。

謙信が「相果」たのは「珍事」な事だという。
毛利を相手にしている秀吉にとっても、毛利と連絡をとりあっている謙信の動向は気になるところだっただろう。
この前年に信長が伊達輝宗に出した書状には謙信の事を 「就謙信悪逆、急度可加追伐候」(「伊達家文書」)と非難している。
信長にとっての敵は征伐すべき悪であった。
この後の別所氏の三木城をめぐる戦いの経過は周知の通り。

大軍を動かす為には大義名分が必要であったが、戦いはより大規模になりより凄惨になっていく。
部下の中には躊躇い、罪悪感に悩む者もいた。

「去十六日書状、今日廿、到来、委細被見候、宇喜多、南条書状同前候」
「鳥取面事、先度桑名具申遣候、弥丈夫令覚悟之由、
尤以可然候、彼城中下々、日々及餓死候旨、可為実儀
候、最前表裏仕候族天罰候間、彼是可打果之段勿論候、
弥堅可申付事専一候」
(「沢田家文書」)
天正九年(1581)八月二十日付で信長から鳥取にいる秀吉に宛てた書状。
吉川経家等が籠った鳥取城の兵糧攻めが開始されて三カ月が経った頃のもので、既に雁金城は落ちて丸山城と鳥取城の連絡も断たれた状況であった。
これによると鳥取にいる秀吉と京の信長との連絡にかかった日数は四日とある。
信長が鳥取城で餓死者が出ているとの報告を受けて知っていたことも判る。
この十六日付の秀吉の文書が残っているのかわからないが、信長は秀吉の文面から現場の罪悪感や士気の低下を感じ取ったのかも知れない。
信長は秀吉等を叱咤する。
これは裏切り者達に対する「天罰」であり彼らを討果たすのは当然であると。
この後、鳥取城内では更に凄惨を極める光景がみられることとなる。

信長は相手を悪しざまに罵っているが、相手側はどうであったか。
本願寺顕如が石山合戦の最中、天正四年(1576)五月に各地の門徒に送った書状。
「今度信長表裏之趣、紙面に不及申顕候、且者覚悟之刻候、
しかれハ、当時すてに籠城之儀、みなゝ可有推量候。
此度の懇志、別而有難事候、当寺破滅之時ハ、一流も断
絶候へき事、あさましく候、歎入計候、よくゝ思案を
めくらされ候へく候、聖人への報謝と申へきハ、此時た
るへく覚候
…略…
老少不定の人界なれハ、無油断、法儀之たしな
ミ、肝要たるへく候、不信にて、命終候ハヽ、永世後悔
ハ、際限あるましく候、能々心得られ候へく候、委細端
坊可申候、穴賢」
(「明蓮寺文書」)
「娑婆ハ一旦の苦ミ、未来ハ永生の
楽果なれハ、いそき阿弥陀如来をふかく頼、信心決有て、
今度の報土往生の素懐をとけ候と相成、其上ハ、仏恩報謝
のため、万事取持いたされ候事肝要に候」
(「常蓮寺文書」)
前の文書は播磨の英賀門徒等に宛てたもの、後の文書は加賀、越中、能登といった 北陸の門徒達に加勢を促したもの。
容赦の無い織田軍に対抗する為の力は信心であった。
「当寺破滅之時は一流も断絶」
「聖人への報謝」
「永世後悔は際限あるましく」
「娑婆は一旦の苦しみ、未来は永生の楽果」
「仏恩報謝」
と危機感をあおり、信仰心の欠如に対する威し、そして信長との戦いが仏恩への「報謝」であると説いている。
石山本願寺には毎年各地の門徒達から大量の贈答を受けており、播磨の門徒から毎年鯛百匹が送られて いたという記録もある。また顕如が紀州門徒に宛てた書状でも英賀、高砂から石山本願寺への海上交通の維持について説いている。
この時期には門徒や軍需物資も送られていたが、織田は新関を置いてこうした人や物の流れを阻んでいく。
やがて石山本願寺を支援していた周囲の勢力も制圧されていき、天正八年(1580)正月には本願寺は「御兵粮玉薬已下万御払底」の状況に陥るまでになっていた。
下間頼廉は「不限一紙半銭」でも良いから支援が欲しいと門徒達に訴えている。もはや石山本願寺にはこれ以上信長に抵抗する余力は残っていなかった。
この年に顕如と信長の間に講和が成り、顕如は石山本願寺を退去した。

こちらは自己弁護に近いもの。
慶長五年(1600)関ヶ原の合戦に至る前の石田三成と真田昌幸の書状の遣り取りの中。

「先書ニも申候丹後之儀、一國平均ニ申付候、幽斎儀者一命をたすけ、高野之住居分ニ相済申候 長岡越中妻
子ハ人質ニ可召置之由申候処、留主居之者聞違、生害仕と存、さしころし、大坂之家ニ 火をかけ相果候事」
遠く上田の地にいる昌幸は随分早いタイミングで丹後の情勢や大坂の細かな情勢を知っていた。 三成はガラシャを死なせてしまった弁明として、留守居の者が命令を聞き間違えて殺してしまったと言っている。 幽斎についても一命を助けたと言っている点も含めて言い訳めいた印象も受ける。三成ごめんなさい…
ガラシャの死をめぐる見解についても考えさせられる文言。

最期は少し時間を遡った永禄十二年(1569)の文書。

「今度毛利乱入国中、既当家断絶之處、従但 馬国凌遠海、至于島根忠山切渡、数剋之構勝負、亡大敵、 雪会稽恥畢、然国家鎮安泰也」
(「日御碕神社文書」)
尼子再興軍が出雲に上陸した頃、勝久が日御崎神社に社領を寄進した時のもの。 あわせて山中鹿介、立原久綱等の連署奉書もある。
「毛利一族之者共、就当国乱入、当家断絶之以来三四年、然今度佐々木勝久、為散其 欝胸、従丹州以舟数百艘至島祢着岸之刻、防戦雖及数度、敵無得利乍敗北、国家静謐畢」
毛利により尼子家は断絶してしまったが、鹿介達の尽力により再び出雲の地に帰ってくることが出来た。
尼子再興の希望を叶えてくれた勝久と合戦での勝利に対して「然今度佐々木勝久 為散其欝胸」 は正直な感想だと思う。
この言葉に尼子再興を夢見る武将達のこれまでの苦労と勝久への期待、再興への熱い思いを感じる。
月山富田城に掲げられた四つ目結紋の旗が目に浮かぶ。
鹿介、勝久主従はやっぱり好きだな。
大勢の人間を動かすためには大義名分が必要だが、立場が違えばその言い分も随分違う。これらの文言は立場上のもので実際の考えとは違うだろうが、彼等の本音の成分も少しは混ざっているように思える。
軍記物のようにはっきり熱く語ってはくれないのだ。

平和のかけ橋


文明六年(1474)四月、応仁の乱の只中のこと。京の街に橋がかけられた。
この橋は特別な意味を持っていた。

京を焼け野原にした大乱ももう七年以上続き、
前年の文明五年三月に山名宗全が死去、続く五月に細川勝元も死去し、両軍とも当初の二人の大将を既に失っている。厭戦の気運が広がり、講和の話が持ち上がった。
講和の話は以前にもあったが実現していない。ここにきてようやく宗全の嫡孫政豊と、勝元の嫡子聡明丸(政元)との間で和睦が成立したのである。
この橋はその証としてかけられたもので、橋の一方はは西軍の陣地、もう一方は東軍の陣地に通じていた。

「已去夕會云々、仍懸橋自他人々往反云々、凡大慶歟」 『親長卿記』文明六年四月三日条
「山名細川和輿對面、天下亂且無爲」 『大乗院日記目録』文明六年四月三日条
この夜、垣屋、太田垣、田公、佐々木、塩冶ら山名被官の五人が馬を引かせて細川邸に礼を述べに出向き、もう一方の細川方からも安富以下五人が馬を引いて山名邸に礼を述べに出向いた。
更に聡明丸母子が山名邸に出向き、酒宴も開かれた。これは凄い。

この和睦は年始頃から東西大名間で持ちあがり、山名、細川被官達の申し合わせと、政豊の譲歩により実現に漕ぎつけたものである
翌日、政豊は和睦成立の旨を畠山、土岐、大内、一色など諸大名に使いを出して報せている。

四日には早くも東軍側から北野天満宮に、山名陣からも誓願寺に参詣する人々があらわれた。
北野天満宮は乱以降に路が途絶え、人々は長く参詣出来ずにいたが、六日にようやく北野天満宮への道が通じ、自由な往来が可能となった。
また西軍方にある下京の商人達が東軍陣地にやってきて商売をするなど、太平の訪れを思わせる風景が見られるようになった。目出たい。

ところで道が途絶えた状況とは一体どのようなものであったのか。
当時の京の市街北部には南北に堀川、小川が流れており、これらの川が東西両陣の境界となっていた。はたしてこの川は両軍を隔てる程の役割を持っていたのか。

堀川は平安京造営時に計画整備された川の一つで、自然に流れていた川を改修して運河とし、北山の木材などの物資の運輸や、貴族庭園への引水の水源として利用されてきた。
『応仁記』では戦闘の際、堀川に架かる一条戻橋や高岸から兵達が転落して多数の死傷者が出たとある。
堀川は深さと幅、ある程度の水深をもった、まさに堀の役割を持つ川であった。

さらに両軍の間の方々の要害、道路は堀で切られて両陣を分断していた。

「自今日一條大路両陣之間堀溝、口二丈計、深一丈云々」 『皇年代私記』

一条大路には幅約六メートル、深さ約三メートルもの堀切が施されていたのだ。驚く。
京市街戦で道路を掘り切る戦術は明徳の乱時にも見られる。
又地方の国境の峠が掘で切られていたという話もある。

この他にも両軍は土塁、堀、藪で陣を守り、高楼に見張りを立てるなど防備を堅めていた。
想像以上に京は立体的な戦場となっていたようだ。

敵陣内に物資を確保しに出向く人夫達もいたが、見つかって殺される者も多かった。
両軍の間は河川、堀、通行止め、陣地により隔てられ、初期のような奇襲、突撃戦術も取りにくくなり 戦況は膠着状態にあった。
このような状況では大手を振って物見遊山に出掛けることなどは殆ど出来ない。和睦の橋が架けられたことは「大慶」「珍重」な出来事であったのだ。

肝心の橋の場所ははっきりしない。
山名邸、細川邸、誓願寺、北野天満宮といった語句から、橋は現在の今出川通りから上御霊前通りの間、山名邸から細川邸近隣の堀川にかけられたものと考えられる。しかも互いの使者が馬と従者を連れて渡れる程の造りであった。
こうして東西両軍の戦闘が停止された。

ただこの和睦は完全な戦闘終結では無く、京での戦闘はまだ数年続くことになる。
和睦が成ったとはいえ諸大名達は陣を引く気配も無く、その動向はいまだ定まらなかった。
和睦に反対した者達もいた。
赤松政則もその一人。

「赤松次郎等用心以他云々、不得其意事也」 『大乗院寺社雑事記』

「赤松不同心云々」 『尋尊大僧正記』

政則と政豊は領国に帰った後、更に激しい戦いを続けていく・・・